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兵庫大仏探訪記:日本三大仏のひとつを巡る

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大仏と聞いて皆さんはどの大仏を思い浮かべるでしょうか?

奈良の東大寺の大仏?関東の人なら鎌倉の大仏でしょうか?有名なのはその二つと思いますが、なんと私の住む兵庫にも日本三大仏を名乗る大仏がありました。

神戸市兵庫区にある能福寺の兵庫大仏です。立派な大仏さまでした。写真とともにご紹介したいと思います。

JR兵庫駅から徒歩10分の兵庫大仏

兵庫の名前の由来は、大化の改新のころに、兵器庫(兵庫:つわものぐら)を作った場所だからだそうです。現在の神戸の中心地と言えば三宮ですが、明日香・奈良の時代にはこの地兵庫が栄えていたそうです。

昨日、兵庫駅から南へ散策していると「兵庫大仏」という看板に目がとまりました。兵庫にも大仏があったのですね。神戸市民になって20年ですが、まだまだ知らないことが多いです。

兵庫駅から南下して2号線をくぐる地下道に掲げられた看板です。そこから300mとのことなので、立ち寄ることにしました。

明治時代に作られた大仏様

最初の兵庫大仏は1891年に建造されました。下の写真が初代の兵庫大仏さまのお姿です。明治時代に撮影された写真だそうです。アフロっぽい髪型の大仏ですね。

Hyogo Daibutsu

初代兵庫大仏は明治24年5月に建立。

大政奉還により成立直後の明治政府の太政官布告により、神仏分離令が発布された直後から廃仏毀釈運動となって日本仏教界は壊滅状態に陥りました。更に数年後居留地から発信されるキリスト教が盛んになったため、保守的な兵庫の人々は切支丹に占領されると危惧しました。こうした時代背景を受け、豪商南條荘兵衛の一大発願により兵庫の民衆はもとより仏教全宗派を挙げて建立されたのが初代兵庫大仏です。大仏は兵庫港に入港してくる舟乗りたちから神戸のランドマークとして全国各地に伝播して日本三大仏と称されました。

惜しくも初代兵庫大仏は第二次世界大戦の最中、昭和19年5月に金属回収令により解体されました。しかしながら戦後、解体された大仏を発見した当時の住職が回収保管し、平成3年の再建時に混入することで旧大仏と現大仏を一体無二としました。数奇なことに現兵庫大仏の開眼法要は旧大仏が開眼された日から数えて、ちょうど100年と1日後の平成3年5月9日でした。

能福寺公式サイトから引用http://nofukuji.jp/

兵庫大仏の写真

そびえ立つ兵庫大仏

正門から見た兵庫大仏像
神戸事件の説明板があったり。

福原京史跡だったり、平清盛の墓があったり

平清盛の墓

ビルゲイツ?もいました(兵庫津の偉人紹介北風正造)

後ろ姿はちょっとかわいいです。Googleマップのルート案内でここにたどり着きましたが、ここからは入れませんので反対側の正門に回りましょう

歴史のごった煮、能福寺

時間がそれほど無かったので全部回らずに帰りましたが、実は大仏殿の右側に本堂があり、阿弥陀三尊像や秘仏があるようです。門を入ってすぐ左に、幕末の外国人切り捨て御免事件(神戸事件)の責任を取って切腹した備前藩士の滝善三郎の慰霊碑もありました。

そのほか、福原京跡や平清盛の墓があったりと一時代の中心地であった場所だったことがうかがえます。歴史を予め調べて訪れると、より興味深い体験ができそうです。

能福寺では入り口や大仏の前など何カ所かに「日本三大仏」と書かれていますが、現在は少し怪しいのだとか。Wikipediaの記述では、初代の頃は確かに日本三大仏だったのですが戦中に解体し供出された後は、三大仏の残り一つを富山の高岡大仏か岐阜市の岐阜大仏か、兵庫大仏が候補に挙げられており、特に決められていないという記述もあります。そのほかにも東京の浄蓮寺にも大きさが日本第3位の東京大仏があるそうです。なかよく日本六大仏でいいと思いますが、関係者の方々には譲れない戦いがあるのかもしれません。

以前、西国街道を歩いたときに芦屋あたりに楠木正成の碑がありました。湊川の戦いもここ兵庫駅からそう遠くはないです。兵庫の町歩きは奈良時代から平安末期の歴史を調べると面白いのかもしれません。

アクセス

Googleマップで兵庫大仏や能福寺とルート検索すると大仏の背中側に誘導されて、能福寺に入ることが出来ません。平相國廟(平清盛墓所)神戸事件 瀧善三郎顕彰碑で検索すると正門側に回るルートを指示してもらえます。

能福寺 〒652-0837 兵庫県神戸市兵庫区逆瀬川町1−39

nofukuji.jp