43号線を西へ東へ

フリーランスの備忘録、アウトプットの実験場

見慣れた風景がいつもより綺麗に見えた

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駅まで20分ほど歩く。見通しの良い大通りを歩いているときに、見慣れた景色がいつもよりくっきりと、そして立体感を増して見えることがある。

具体的には、遠くまで見通すことができて、遠くの信号がやけに近く見える。物理的には同じ距離でも日によって遠くに見えたり近く見えたりと、見え方がかなり変わる。そんな感覚をもつのは私だけかな?

そのような見え方の変化を、総合的なコンディションのバロメーターにしている。

調子のよいとき、悪いとき

遠くまで見通せている状態なら、不思議な話だが遠くの信号が近く見える。こういう時は落ち着いていながらもテンションが高い。何事にもいい塩梅で取り組めているときは、こういう感じ。

逆に気持ちで頑張っている時ようなは、遠くが普通に遠く見える。やる気で何とか踏みとどまっている時は、視野が狭くなっている様な気がする。

あかん時は、目線が下がり近くの信号までしか見ていない。下手したら足元ばかり見ている。

感覚は体調によって振れ幅が大きいのだろう

同じものを触っても、日によって質感を強く感じることもあれば、のっぺりと歯科感じないこともある。たとえばテーブルの天板。調子のよいときは木目に沿ってざらつきを感じるが、眠い朝には手を置いてもただの平面としか認識できない。

「今日は寒いですね」なんてみんなに言われる日でも、自分的には全然寒くない日もある。もちろん寒く感じる日もあるが。

感覚は日によって感度が異なる。目や耳、触覚など、感覚器のセンサーの入力の感度、脳の感覚野のキャパシティ、脳の上位で行われる情報の取捨選択により、時と場合によって見えるものが違うことは多い。

いつも通る道でも、意識がそちらに向かなければ、あることすら気付いていない建物も多いのでは。視覚の感度が上がると同じものを見ていても違うものを見ているような錯覚を起こすことがある。昨日の四つ橋通りの渡辺橋からの風景はまさしくそのような感じで、ビルや信号の光、車のテールランプが非常にきれいに見えた。

良いコンディション、悪いコンディション

遠くのものが近くに見えるときは、風景がくっきりと見えている状態が多い。推測ではあるが、脳の余計な活動が抑制されていて、視覚に割り振れるリソースが多い状態で、風景がきれいに見えるのかもしれない。知らんけど。

反対に、遠くに見えるときは、終わりが見えぬ考え事、つまり悩み事を抱えていたり、終わらない仕事を抱えていたりすることが多いのかもしれない。歩いていても、考えることにリソースが割かれて、風景を見ることの優先順位が下がっているから、車にはねられない程度の視覚情報をのみを処理しているのかもしれない。

最後に

昨日のように遠くまで見えているときは、体も頭もリラックスできている良い状態のかもしれない。

今までも何度も「今日はやけに信号が近く見える」と感じる日があったが、それはだいたい歩いている時で車に乗ってるはときには感じない。

景色は綺麗、歩くのも楽しい、仕事捗る。そのような良い状態をキープしたいものだ。ただ、どのように自分をキャリブレーションしたらその状態なるのかは、長年生きてきても未だ不明。

昨日は絶好調っぽかった。今日は半年先までの仕事の値決めという大仕事があるので、いい状態で臨めそうではある。